ページ

自分の写真
A human in the Earth. I use my brain to think something. born in Kyoto.Lived in Nara,Tokushima and Nishinomiya.

おれにはわからん

2013年1月30日水曜日

量子論の話

 シュレーディンガーの猫とアキレスの亀とパブロフの犬とヘンぺルのカラスは科学の四大神獣な。そんでその上にマックスウェルの悪魔とラプラスの悪魔っていう二大悪魔がおるわけよ。という中二病。
ちなみにシュレーディンガーの猫は量子論の批判の話、アキレスの亀は哲学の話、パブロフは生理学の条件反射についての話、ヘンぺルのカラスは科学哲学における帰納法の批判の話。 で、マックスウェルの悪魔は物理学、ラプラスの悪魔も物理学の話。

 そんなことは置いといて、 今回は量子論について文系の僕が語るというとても下らない内容の記事を書くのだ。シュレーディンガーの猫も出てくる。
 参考文献は、PHP研究所発行・佐藤勝彦監修の、「図解 量子論がみるみるわかる本」。



初めに

もともと僕が量子論という理論そのものを知ったのは、僕が今でも時々読んでる月刊科学雑誌のニュートンで、量子論というものを紹介する特集がきっかけ。
 そのときは意味不明すぎてわけわかめだったんだけど、次世代のコンピュータ、「量子コンピュータ」とやらがこの理論に基づいてるって知ってから興味を持ったんです。
 ちなみに、最近アニメでやってたヨルムンガンドにも量子コンピュータっていうのが出てくるし、 色んな近未来SF作品にも結構出てきてる。SFの題材としてはけっこう普遍的な存在で、タイムマシンやら瞬間移動装置やらよりも実現の可能性が高いものとして描かれてることが多いんですな。この量子コンピュータとやらはまた暇があれば解説したいと思う。
 以下に書いていくことは、参考文献を読みながら、僕が文系の人間として文系の人間なりに解釈したことであり、間違っていたり少し歪められた部分は多々あると思うけど、少なくとも文系の人が量子論に興味を持つのに十分な効果があると思う。たぶん。

量子論と物理学の関係


 量子論が「学」ではなく「論」なのは、物理学の批判として提示されたものっていう背景があるんよね。
それで、量子論が唱えられた前と後の物理学っていうのは、「古典物理学」っていう言葉があるように、ものすごい違った様相が生まれることになったんですな。量子論は、物理学に、新しい視点での物の見方を与えたというわけなんですな。
 量子論的な見方によって物理学から派生した学問に、「量子力学」っていうのがあって、最新の物理学では、かなりメジャーなものらしい。それはあんましよく知らんのだけど。

二重スリット実験


 まず量子論の成り立ちとして重要な「二重スリット実験」という実験がある。この実験なくしては量子論というものを語れないので、まずこの実験について知っておいてほしい。



この動画を見てもらったら二重スリット実験の内容が大体分かると思う。

で、動画を見るのが面倒という人のために、この実験の内容を箇条書きのスタイルで説明してみる。


前提条件

1.粒のようなもの(粒子)を発射する装置と、発射されたものがぶつかるとそこに跡が残るスクリーンがある
2.発射装置は、スクリーンにぶつかる範囲であるなら、ランダムな方向へ粒子を連続してばらまく
3.発射装置が放つ粒子の大きさは、自由に変えることが出来る
4.ただし、大きさを変えるためには、スクリーンを一度白紙にしなければならない
図1 発射装置からランダムに粒子が発射されスクリーンに映る



実験その1
5.発射装置とスクリーンとの間に1つの切れ込み(スリット)が入った壁を置く
6.発射装置から放たれた粒子は、スリットを通ったものだけがスクリーンに跡を残す
図2 スリットを通った粒子が一本の線を描く

7.図2のように、スクリーンには、一本の線が浮かび上がった
8.スリットを一度白紙にして、粒子の大きさを変えて再び5と6を行う
9.どのような大きさの粒子でも、スクリーンには同じように一本の線が浮かび上がる

実験その2
10.スリットを2重にし、肉眼で見えるほどの大きさの粒子を発射装置から発する
図3 粒子は2本の線を描いた

11.図3のように、2本の線が浮かび上がる
12.スクリーンを白紙にして、発射装置から放つ粒子を電子に変える
図4 スクリーンは中央ほど濃くなる縞模様を描いた

13.電子は、肉眼で見えるような粒子の時とは違い、図4のような濃淡のある縞模様を描いた

実験その3 
14.実験場を液体で満たし、発射装置を、波を発生させる装置へと変える
図5 波の場合2つの波が干渉しておこる「干渉縞」が描かれる

15.この場合、スクリーンには2つの波が干渉することによって生まれる「干渉縞」が浮かび上がる
16.これは、13の結果と似たような結果であることがわかる
17.「電子がお互いに干渉しあっているからこのような結果になる」という仮説を立てる→仮説1

実験その4
18.実験場を元に戻し、今度は電子同士が干渉しないよう一個ずつ放っていく
図6 ひとつずつ電子を放った場合でも結果は同じ


19.11と同じ結果になり、電子がお互いに干渉しているという仮説は否定されることになる
20.ここで「それぞれの電子は一体どちらのスリットを通ったのだろう」という疑問が生じる

実験その5
21.電子がどちらのスリットを通ったのかを調べるために、電子が通ったのを感知する装置をスリットにとりつけて実験を行う
図7 観測装置の有無によって描かれる線が二本に

22.すると、スクリーンには、実験2で目に見える粒子を放った時と同じような結果になってしまった
23. 「観測装置の有無が電子の振る舞いに影響を与えている」と考えられる
24.実験はここで終了する


二重スリット実験の結果から量子論が生まれた


 これら実験の結果によって分かることといえば、観測装置の有無が電子の振る舞いに影響を与えるということだけなわけなんだけれども、この電子の振る舞いの謎さ、っていうのが量子論の成り立ちなんですな。
 目に見えるものは、原因から結果までの過程を逐一確認できる。喩えどんなに小さいものであっても、その物体の位置や状態など全てが分かればその物体の未来のことも分かってしまうというのが古典物理学の考え方なんだけれども、量子論は、「目に見えないものは、原因から結果までの過程を確認することはできない」と考えたのです。そして、「何らかの方法で過程を確認しようとすれば、それは目に見えているものと同じ振る舞いをする」ということを量子論は言っているんです。これだけ聞くと、ものすごい眉つばものだよなあ。
 でも、本当のところ、これは眉唾な話でもなんでもない。
 ちなみに、こういう結果になるのは、電子だけに限らず、電子レベルの大きさの粒子なら必ず起こりうることなんですな。

「目に見えるか見えないか」でどう違うのか


 観測装置っていうのは、観測対象になんらかの影響を与えて、その影響による変化を感知することで観測対象の振る舞いを調べるものなんですな。観測対象に影響を与えずに何かを観測するというのは、実は絶対に不可能なわけです。
 例えばそれが電子であるとする。電子っていう粒子は、それよりも小さな何かを発し続けているわけではないため、それが何処にあるか、ということを知るためには、例えば何かにぶつからない限りは分からない。電子そのものが、どこかしらで何らかの作用を起こさなければ、電子の場所がわからんのですよ。
 電子は、光(光子)をぶつければ反射するという性質はあるけれど、電子は光よりもがっちりした粒子だとはいえ、ぶつけられた光によって少なからず影響を与えられてしまう。それよりも小さな粒子を用いて電子を捉えようとしても、今度は電子にぶつかる確率が低くなってしまうし、仮にぶつかっても、やっぱり少なからず影響を与えてしまう。だから結局、電子の振る舞いを知るのには、限界があるわけですな。
 もちろん、これも電子に限らない話で、目に見えないほどに小さいものであればあるほど、言い換えれば、観測によって対象物が影響を受けやすければ受けやすいほど、「観測していない状態での振る舞い」というのは分かりづらくなってしまうということになるわけですな。


量子論の基本的な考え方


 ここで再び二重スリット実験についての話に戻るけど、そういうわけで、目に見えないくらい小さなものというものの振る舞いについては、2重スリット実験のような結果をそのまま受け入れるしかない、という結論にいきつくわけです。ようするに、 電子は、どちらかのスリットを通り抜けたわけではなく、どちらのスリットも通り抜けた、ということ。
 電子が、実験3のように干渉縞のようなものを作ったのは、電子のひとつひとつが、波のような性質を持ってスリットを通り抜けたから、と考えるのが、量子論において一番もっともらしい仮説なんですな。
 つまり、電子は、一粒だけで2つのスリットを通って、それから自分で自分を干渉しあって、ついにはスクリーンに一粒分の跡を残すわけです。自分との干渉によって、本当ならスリットに邪魔されるような軌道でも、それが実現してしまうということ。

「存在の不確かさの煙」


 もっと分かりやすくするためにしつこく説明すると、電子がスクリーンに映るまでは、電子はものすごく存在が希薄なんですな。どこにあるのかわからない、というか、存在が霧やもやのように何処にでもあるような状態。だから、波のような性質になってしまうわけなんですな。で、何かにぶつかれば、そのたびに存在が確定される。その状態にある電子のことを、ここでは「存在の不確かさの煙」と呼ぶことにしよう。この煙を、発射装置から漏れ出ていく煙のようなものと想像してくれたら分かりやすい。
 まず第一に、存在の不確かさの煙は、2つのスリットにぶつかり、そこで煙は分割してそれぞれのスリットに確定する。この瞬間、0.5個分の電子がそれぞれのスリット上にいったん収束されるわけです。狭いところを通らないといけないから、それぞれのスリットを通り抜ける間はとりあえず煙が0.5個という中途半端な形とはいえとりあえず収束することになる。。
 次に、そうして2つにわかれた電子は、再び存在を不確かにしながら、スリットから抜け出ていくわけです。だけども、ここで、2つの存在の不確かさの霧が、重なり合ってくる部分が生まれてくる。二つの霧が重なり合ってくる部分は、スクリーンに近付くにつれてその濃度が上がっていく
 そして、最後にスクリーンに煙がぶつかると、最も濃度が高くなった部分で、電子の煙は収束してひとつの電子に収束するわけですな。
 電子が一粒で自分の存在に干渉して自分の運動に影響を与える、というのは、大体このイメージで掴めると思う。
 こうして、何度も電子がランダムな方向に発射されるたびに、ランダムな自己干渉とランダムな自己収束が行われ、その結果、スクリーンには干渉縞が浮かび上がるというわけ。
 その過程において、観測による影響が加えられると、存在がいったん「確か」なものになってしまうので、煙の状態が解除されてしまうというわけですな。スリットの前で2つに分かれて「両方のスリットをも通る」のがいいのに、そこで邪魔されてひとつの電子になってしまうから、その時点で「どちらかのスリットしか通れない」ことになる。 よって、干渉縞が現れなくなってしまう。
 そういうわけで、電子はスリットを通る時、その存在を2分割していることになるんですな。
 ちなみに、煙の例では0.5個分ずつ、っていう事を言ったけれども、実は等分とは限らず、電子によっては例えば2:8とか13:17とかいうようなランダムな比で分割されることのほうがもちろん多いわけですな。右に比が大きければスクリーンの右の方に電子が跡を残すことになるんじゃまいか。しかし、スクリーンに跡を残す電子全体の平均として、0.5個分ずつ分割されているというという表現で間違ってはいないと思う。
 だけども、やっぱり眉唾なものだと思う。だけども、これを仮説として受け入れなければ、量子論は見えてこない。

「重なり合わせ」の状態とその批判


 古典物理学の考えだと、「原因を突き止めれば、結果は観測せずともわかる」というもの。言い換えれば、「観測できなくとも原因が完全に分かっていれば結果は確定している」ってことなんだけども、量子論が「観測できなければそれは重なり合いの状態として存在する」っていうもんだから、当時多くの物理学者が反対の意見を唱えたわけです。

・アインシュタインの「神はサイコロを振らない」

 一番有名なもののひとつが、アインシュタインの「神はサイコロを振らない」っていう発言ね。アインシュタイン
 の言葉としては有名ななんだけど、これが具体的にどういう意味だったのかっていうことは意外によく知られていないと思う。アインシュタインは、古典物理学の立場から量子論を批判した人物ね。アインシュタインともなると「古典」ってつけるのに少し違和感があるけど、量子論の完成前後で物理学を分けた場合はアインシュタインの理論も古典物理学の方に分類されるらしい。
 簡単にいえば、これは量子論の、ものの振る舞いがランダムであるという部分を批判したもの。
 振られたサイコロの出た目を観測できない場合、サイコロが手から離れた時点でのサイコロの状態が分かれば、出るサイコロの目もおのずとわかるとアインシュタインは言ったわけね。神様というものが存在したとして、それがものの動きや状態などを全て把握できる能力をもつなら、神様はサイコロの目が出る前からその結果を知ることができるので、神様はサイコロを振る必要が無い、っていうことの喩え話。
つまり、ランダムなものは、この世に何一つ存在しないってことをアインシュタインは言ってるわけですな。

・ラプラスの悪魔

 記事冒頭でさりげなく出したんだけど、実のところ量子論の批判でなくて、実はそれ以前にあった古典物理学のイデオロギーを、ピエール=シモン・ラプラスとかいうもっと古い世代の物理学者が喩えたものなんですな。
 これも、アインシュタインのいう神様と同じで、現時点において全ての物体の位置やら状態やらを全て知ることのできるものすごい生き物がいたら、その生き物はどんな未来をも知ることができるっていう主張をしてるわけですな。アインシュタインなど他の古典物理学者が量子論を否定する理由の根底にあって、古典物理学の前提とも言えるような喩え話が、ラプラスの悪魔というわけです。

・シュレーディンガーの猫

 これも有名な喩え話だけど、哲学的な喩え話としては知られていても、これが量子論を批判するためのものであるということも、あまり知られていないと思う。
このシュレーディンガーの猫というものは、
  1.中身の状態を全く確認できない箱の中に、猫と、放射性物質と、放射線を感知して毒ガスを噴霧する装置を一緒に入れる
  2.放射性物質が核崩壊によって放射線を発生する確率はランダムなものだから、猫の生存率はその確率と一致する
  3.猫の生死は箱を開けなければ観測は不可能だが、果たしてこの猫は量子論が言うように生と死が「重なり合った」状態で存在するものであるだろうか(いや、ない)
というような反語的な結論を導くための思考実験なんだけども、シュレーディンガーっていう物理学者は「箱を開けて中を確認せずとも猫の生死は決まっているはずだ」と主張して、量子論の眉唾さを指摘したものなんだよね。

 しかしまあ、「神はサイコロを振らない」ってセリフも、シュレーディンガーの猫も、結局は、量子論が完成されていくにあたって、その批判が見当違いなものであると認めざるを得ないことになっていったんだけどもね。

 ちょっと余りにも長文になってしまったので、ここでこの記事をいったん終了したい。
続きは、また気が向けば書きたいと思う。

おわり。

0 件のコメント:

コメントを投稿